淀橋付近

淀橋という新宿の地名は神田川に今も架かる橋の名前に由来する。新宿大ガードから青梅街道を1kmくらい西に行って成子坂を過ぎたところに淀橋がある。明治期から昭和戦前期までの地形図を見ると淀橋の北側に水車の地図記号がある(「東京時層地図」より、左上:明治9-19年、右上:明治36-42年、左下:大正5-昭和2年、右下:昭和3-14年。左上の図では六芒星っぽい記号、それ以外の図では半分埋まった工場マークみたいなやつが水車)。淀橋の水車は江戸時代からあって『江戸名所図会』にも描かれた有名なものだったらしい。

1853年の黒船来航を受けて幕府は軍備増強を迫られ、武器弾薬を急いで増産しなければならなくなった。そこでもっぱらお米や麦を搗いたり蕎麦の粉を挽いていた江戸近隣の水車小屋に火薬の製造を命じた。安全対策など誰も知らんままで急造したため、翌1854年には板橋・小山・牛込・世田谷などあちこちの水車小屋で爆発事故が相次いで死者がたくさん出たらしい。近隣の村々で起きる爆発事故の話を聞いてびびりまくった淀橋の人々は、淀橋水車での火薬製造をどうか別の場所に移してほしいと奉行所に嘆願書を提出したが、この嘆願書が審議されている最中の1854年6月11日早朝、ついに淀橋水車でも大爆発が起き、消火に丸一日かかったという。水車小屋の跡には幅15間・深さ1丈2、3尺のクレーターができたとか。幕府の無為無策っぷりもなかなかひどい。以下参考文献。