入學式における式辭

 新入生の皆さん。あなたがたは、いま、東亰大學の一員にならうとしておられます。それが、ここにおられる一人ひとりに、驚きにみちた豐かな體驗を約束するものであつてほしい。わたくしは、心からさう祈らずにはおられません。

 外國からの留學生41名を含めた3,425人の若い男女を迎へ入れることで、東亰大學は、今年もまたその年ごとのよみがへりの瞬間に立ち會おうとしてをります。1877年、すなはち明治10年 4月12日といふ、いまから正確に122年前に生誕したわたくしたちの大學では、毎年、その創立記念日に入學式がとり行はれることになつてをります。さうすることで、起源となつた瞬間をともに反復しあいながら、同時に、新たな出會ひをも祝福するといふならはしを、ひとつの傳統としたのであります。その意味で、この入學式の機能が、たんなる歡迎の儀式につきるものではないことはおわかりいただけるはずです。その決して短くはない歴史を通して、この大學のいたるところで旺盛に展開されてきた知的な試みが、未來に向けてのさらなる充實をめざして、なお濃密な知的持續として維持されてゐることを改めて確かめあふといふ意圖も、この儀式にはこめられてゐるのであります。その限りにおいて、ここにおられる一人ひとりの男女は、それぞれに惠まれた資質と、やがて顯在化されることになるだらう個々の多樣な才能に應じて、東亰大學の豫測しがたい未來の豐饒化に加擔する主體として、この場に參列しておられるのです。あなたがたは、いまこの瞬間から、さうした積極的な個體として、自分自身を位置づけることができるはずなのです。どうか、そのことの誇りと責任とを、充分に自覺していただきたい。

 何があなたがたをこの大學へと向かはせたのか、もとよりわたくしはその動機を詳しく知ることができません。しかし、それが、言葉には到底つくせぬほど複雜多岐にわたるものであらうことは、わたくしにも容易に想像がつきます。ここにおられる一人ひとりが、「新入生」といふ陳腐な語彙で總稱されるのを晴れやかにこばむだらう多樣な個體からなつてゐることを、わたくしは體驗的に知つてゐるからであります。あなたがたを迎へ入れやうとしてゐるこの大學もまた、いはゆる「東大」といふ略稱で人びとが思ひ描きがちなイメージには到底をさまりがつかぬほど大膽かつ纖細な構造にをさまり、愼重さをいささかも排除することのない斬新な賭けの精神を露呈させるいくつもの斷片や細部からなつてをります。あなたがたの異質な多樣さとわたくしたちの大膽な纖細さとが出會おうとしてゐるいま、あらゆる人にその遭遇を祝福する確かな主體として振る舞つていただきたい。ここにおられる一人ひとりの若い男女に、さうした積極的な姿勢を期待してをります。

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 新たな出會ひに向けて祝福の挨拶を送らうとしてゐるわたくしは、いま、この壇上に、いくぶんか息苦しい思ひで立ちつくしてをります。この會場にみなぎる無償なまでの若さを受け止めながら、それに氣おされまいと、つとめて身構へざるをえないからであります。また、この會場の3,000を超へる座席を理めつくしたあなたがたの存在の、ものいはぬが故にかへつて嵩をます濃密な氣配にも、いささか緊張せざるをえません。そこには、全科目を點字で受驗して合格するといふわたくしには想像もつかない作業を見事にやつてのけた新入生が一人おられます。その方も、このせきこんだ語調から、わたくしが陷つてゐるただならぬ緊張ぶりを察しておられるものと思ひます。

 わたくしは、いま、わたくしの心と體とをとらへてゐる極度のこはばりを、あへて隱さうとは思ひません。むしろ、この緊張を、一つの解讀さるべき記號として、あなたがたに受け止めていただきたいとさへ願つてをります。といふのも、その緊張に向けて存在をおしひろげ、その波動に身をゆだねることそのものが、かうした儀式に特有の時間と空間のもとで成立するコミュニケイションの一形態にほかならぬからであります。そもそも、儀式とは、見せかけの華麗さが空疎な形式を視界から一瞬遠ざけることで成立する、壯大な退屈さの同義語ではありません。通過儀禮の一つとして、とりあへずは耐へておくべき無駄な時間でもありません。なるほど、日本における儀式の多くは、さうした印象を與へかねない單調さをことさら恥ぢてはゐないかにみえます。また、そこでは、日常のさりげなさからは思ひきり遠い公式の言葉が仰々しく口にされがちであります。しかし、本來、儀式の場に流通する言葉には、氣心の知れた仲間同士の親しいふなずきあひとは異なる外部の力學が働いてをり、それが有效に機能した場合、そこには、共感とは異質のある種の齟齬感が、同調からくる納得ではにはかに處理しかねる違和感が、あるいは、親密さではなく、むしろそれをこばんでゐるかにみえる隔たりの意識が、意味の生成に深くかかはるものとして浮上してまゐります。いま、あなたがたにあへて緊張の共有を求めたのは、わたくしと同じ状況に身をおいてほしいからではありませんし、それを想像の世界で鮮明に思ひ描いていただきたいからでもありません。むしろ、それがきはだたせる隔たりの意識に觸れ、さうした記號にも、何らかの社會的な意義がそなわつてゐることを理解していただきたかつたからにほかなりません。

 ある言語學者は、言葉の二つの機能として、普遍的な意味を擔ふ言語記號と、具體的な發話にともなふ社會的な意義とを區別いたしました。後者を「指標」と名づけたのでありますが、儀式とは、社會的な意義としての「指標」が無視しがたい役割を演じる舞臺なのです。實際、社會とは、いくつもの齟齬感や、違和感や、隔たりの意識が複雜に交錯しあふ苛酷な空間にほかなりません。そこでの言葉は、あらかじめの同意の確認を目的としてはをらず、普段は隱されていながらもそれが總體として機能するのに不可缺なもろもろの異なつた要素の組み合はせを、すなはち、複數の差異をきはだたせる役割を擔つてをります。社會の維持とその好ましい變化にとつてとりわけ重要な機能を演じてゐる大學もまた、その例外ではありません。そこで求められてゐる身振りは、ごく自然な共感でも安易な同調でもなく、科學的な思考や藝術的な振る舞ひを始動せしめる本源的な力としての差異、すなはち「異なるもの」を前にして、そのつど新鮮な驚きを生産しうるしなやかに開かれた好竒心だからであります。

 いま、わたくしが、東亰大學總長といふ社會的な役割に自覺的なあまり、いくぶんぎこちない口調で祝福の言葉を語らざるをえないのは、もちろん、年長者による若さへの嫉妬からではありません。また、若くあることへの手放しの擁護を無理に目論んでゐるからでもありません。相對的な若さは、それ自體としてはいささかも「新しく」はないからであります。社會には、あるいは、むしろこの世界にはといふべきでせうが、相對的な聰明さによる對象の把握能力だけでは對應しかねる不自然な事態に充ちあふれてをります。不意にさうした事態との遭遇を餘儀なくされるとき、人は持ち合はせの知性だけでは對處しがたい齟齬感と、違和感と、隔たりの意識に深く戸惑ひ、苛立ちを覺えるしかありません。若さとは、そのやうな苛立ちをみだりに遠ざけることなく、率直な驚きとともにその不自然さを受け入れやうとする、年齡とは無縁の資質にほかなりません。「それぞれの年齡は、それにふさはしく開く花々を持つてゐる」と書いたのは、フランスの作家マルセル・プルゥストであります。若さとは、それぞれの年齡にふさはしく花々を開かせる潛在的な好竒心の有無の問題です。大學は、その潛在性を顯在化させるための特權的な環境以外のなにものでもありません。

 わたくしのぎこちなさは、何よりもまづ、新入生といふ社會的な身分にふさはしくこの場に列席しておられるあなたがたの一人ひとりが、わたくしにとつて自然なものではなく、どこかしら不自然な表情にをさまつてゐることへの隔たりの意識からきてをります。總長として毎年この儀式を主宰すべき立場にあるわたくしがまたしてもとらはれてゐる居心地の惡さは、新入生といふ語彙で一般化されながら、なお昨年のそれとは微妙に異つてゐる不特定多數の多樣な個體と遭遇しえたことの率直な驚きと、なお驚きへの好竒心を失はずにゐる自分自身の若さを確認しえたことの、鈍い誇りの表現にほかなりません。微妙ではありながらも何かが決定的に違つてゐる對象を前にしたときの驚きは、齟齬感や、違和感や、隔たりの意識を煽りたてる對象への深い敬意を前提にしてをります。知性のみなぎる環境としての大學は、このやうに、知性をふと逡巡させかねない驚きをとどめた環境でもあります。自然なものと見えながら、同時に不自然なものとしても立ち現れてくるこの大學といふ環境に、どうか親しんでいただきたい。それと同時に、そこに含まれてゐる決定的に親しむことのできない過剩な何かへの感性を、たへず維持しておいていただきたい。さうすることで、あなたがたに惠まれた相對的な若さを、眞の「驚き」として不斷に生成しつづけることができるからです。

 今日、いたるところで問題となつてゐるあの「國際化」といふ言葉を眞の體驗として生きるためには、おそらく、相對的な若さとは異なる「驚き」への感性が必要とされます。國際的な相互理解などといふ美辭麗句に、間違つてもだまされてはなりません。その言葉が美しく響くのは、觀念の領域にすぎないからです。實際、具體的な國際性とは、野蠻と呼ぶほかはない不幸な推移を示してゐる現在のコソボ情勢がさうであるやうに、無數の差異がまがまがしく顯在化される苛酷な空間にほかなりません。そこでは、たへず齟齬感や違和感の的確な處理が求められ、さりげなさを裝つた外國語での流暢な會話能力など、いかほどの役にもたちません。國際的な交渉の場で要求されるのは、いま、この儀式の會場にはりつめてゐるやうな緊迫感にたへつつ、いくえにも交錯する隔たりの意識を丹念にときほぐしながら、なほ、言葉を抛棄せずにおくといふ執拗さにつきてをります。その執拗さが差異への敬意を缺いた場合、「國際化」などといふ概念は、たちどころに抽象化され、意味を失ふほかはありません。大學も、たへずさうした抽象化に陷る危險をはらんだ環境だといふことを、あらかじめご理解ねがひたい。

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 すでに述べたやうに、あなたがたを迎へ入れたばかりの東亰大學は、いまから122年前に創設された、日本でもつとも古い國立の大學であります。わたくしは、1877年といふ歴史的な年號にあへて言及しておきましたが、それは、この高等教育の機關が生きてきた歴史の相對的な古さを誇るためではありません。わたくしとしては、むしろ、あなたがたが、19世紀といふ時代にどんな思考を投げかけてゐるのかを知りたく思ひ、この年號に觸れてみたのであります。21世紀の到來が目の前に迫つてゐる20世紀末の日本の若い男女は、明治10年といふ過去の一時期を、どのやうなものとして思ひ描いてゐるのか。それは、遠いといへば遠い過去の一時期であります。だが、中世に知のギルド的な集團として生まれたボローニャ、パリ、オックスフォードなど、ヨーロッパの主要な大學の創設の時期にくらべてみれば、それは驚くほど現在に近い過去だともいへます。その意味で、東亰大學は、相對的な古さと相對的な新しさとを同時に身にまとつた組織だといふことができるでせう。では、遠くもあれば近くもある過去といふ現實を、あなたがたの知性はどう處理するのでせうか。

 122年前の日本が生きてゐた現實や、それをとりまいてゐた複雜な國際情勢などは、おそらく教科書の智識としては心得ておられませう。だが、そのことは、ここにおられる一人ひとりが相對的に聰明な存在だといふことしか意味してはをりません。あなたがたは、はたしてその時代を、具體的なイメージとして想像しつつ、自分の生きた體驗とすることができるでせうか。あるいは、その瞬間から今日にいたる120年餘の時間を、どのやうな現實として受けとめることができるのでせうか。そのとき、違和感や齟齬感が生じ、知性が頼りなく搖らぐことはないでせうか。さう問ふてみるわたくしは、むしろ、あなたがたなうちで、知性がふと搖らぎ始めることを期待してゐるのです。

 1877年の4月12日、東亰開成學校と東亰醫學校の合併により、法・理・文・醫の4つの學部からなる東亰大學が誕生ひたしました。教室の照明はアセチレン・ガスによるもので、校舎は神田の一ツ橋にありました。そのとき、西郷隆盛の擧兵に始まる西南戰爭はいまだ決着をみてをりません。近代化への歩みをおぼつかない足取りでたどり始めてゐた當時の日本は、議會制度はいふまでもなく、いまだ憲法さへ持たぬまま、もつぱら藩閥的な元老院議員たちの議論にしたがひ、國土の中央集權化への基礎を難儀しながら築かうとしてゐたところです。それは、西ヨーロッパの列強の擴張主義による海外投資の増大が競ひ合つて植民地分割をおしすすめ、世界の資本主義がやうやく帝國主義的な段階にさしかかつたといはれる時代であります。やがて、近代國家としての日本が、不可避的にさうした流れに卷き込まれてゆくことになつたといふ事實も、おそらく智識としてなら心得ておられませう。だが、その智識と、あなたがたがいま生きてゐる時間とは、齟齬感なしに交錯しあふでせうか。相對的なものにはとどまりえない絶對的な聰明さによつて、事態を處理しうるでせうか。

 日本の首都となつて10年が過ぎたばかりの東亰で、わたくしたちの大學が正式に發足したころ、明治26年、すなはち1893年に文科大學を卒業することになる夏目漱石は、幼少期をすごしてゐたにすぎません。オランダの画家ヴァン・ゴッホはまだ南フランスの太陽と出會つてはをらず、いまなら誰もが知つてゐるあの原色の繪の具で、キャンバスを大膽に彩るにはゐたつてをりません。いまのあなたがたとほぼ同じ年齡で傑作『地獄の季節』を書きあげてしまつたフランスの詩人アルチュウル・ランボーは、すでに詩作を抛棄し、世界を放浪してをります。熱烈に擁護したリヒアルド・ワァグナァとの訣別をはたしたばかりのドイツの哲學者フリィドリッヒ・ニィチェは、そろそろ晩年の狂氣を準傭し始めてゐたところです。亡命先のロンドンで執拗に書き繼がれたカール・マルクスの『資本論』は、その第1卷こそ刊行されてゐたとはいえ、フリィドリッヒ・エンゲルスの手にゆだねられた殘りの分册は、いまだ日の目をみてをりません。そのとき、眞の20世紀文學の傑作とみなされるべき『ユリシィズ』の作家ジエームス・ジョイスも、『變身』の作家フランツ・カフカもまだ生まれてはをらず、『失はれた時を求めて』の作家マルセル・プルゥストだけが幼年期を送つてゐたにすぎません。エドムンド・フッサールの現象學も、アンリ・ベルクソンの哲學も、フェルディナンド・ド・ソシュウルの一般言語學も、ジグムンド・フロイトの精神分析學も、エミール・デュルケムによる社會學も、ヨーロッパの知的風土にはまだ姿を見せてはをりません。アインシュタインの相對性理論が世界の物理學に衝撃を走らせるのは、さらに後のことです。さうした分野での理論の確立されるより遙か以前に、東亰大學がすでに地上に存在してゐた事實を、あなたがたは自然なことと納得されるでせうか。

 自然なことといへば、わたくしは、この式辭の中で、自分自身を「わたくし」といふ言葉で名指すことにいかなる不自然さも感じてはゐない人間です。また、新入生に對し「あなたがた」と語りかけ、ときに「皆さん」と呼びかけることもごく自然な言動だと思つてをります。さうすることが、體驗として肉體化されてゐるからにほかならず、そこにいささかの違和感もありません。しかし、この大學では、初代の總長以來ほぼ110年もの間、現在は文部大臣をつとめておられる第24代總長の有馬朗人先生にいたるまで、入學式で新入生を前にするとき、一貫して「諸君」といふ言棄で呼びかける習慣を持つてゐたのであります。そして、そのことに、ある種の齟齬感がつきまとふのを、わたくしは否定することができません。總長が自分自身を名指す場合の言葉としては、明治中期の「餘」から始まり、「本職」といつた客觀的な呼び方も使はれながら、明治中期と後期には「餘」と「我輩」とが混在してをり、大正期から昭和期にかけて「私」がやうやく日常的な語彙として定着するといふ、比較的自然な變遷をたどることができます。だが、この「諸君」といふ一語となると、それは明治、大正、昭和を通していささかの變化もみられず、平成の始めまで維持されてをりました。この一人稱の「餘」と二人稱複數の「諸君」とが陷つてゐる歴史的な不均衡は、何を意味してゐるでせうか。一方は時代とともに變遷し、他方はほとんど變化せずに繼承されてゐたといふ事實は、何を告げてゐるのでせうか。

 1886年、すなはち明治19年、大日本帝國憲法が公布されるより3年前に發布された帝國大學令によつて、東亰大學は帝國大學と改稱されるにいたります。そのとき新たに加わつた工部大學校をも含めた5つの分科大學を總括するものとして、それまで總理と呼ばれてゐた責任者にかはつて、初めて總長といふ職がこの大學に登場することになつたのであります。初代總長には、東亰府知事をつとめたことのある渡邊洪基が任命され、いらいわたくしまで、合計26人の總長を數へてをります。

 ところで、『東亰大學百年史』に資料として收録されてゐる明治19年7月10日の卒業式の式辭によると、初代の渡邊總長が「餘」と「諸君」といふ一組の言葉を入學式の式辭に定着させてゐることがわかります。その冐頭の部分を讀んでみますと、「今日ハ正二是帝國大學ノ創立及餘力光彩アル帝國大學總長ノ職二就キシ以來最初ノ一大節日ニシテ諸君ノ出座ヲ以テ茲二比ノ式ヲ開クヲ得ルハ餘ガ無上ノ榮譽及快樂トスル所ナリ」となつてをり、あへて指摘するまでもなく、これは文字通り言文一致以前の漢語文脈的な日本語であります。漢字いがいの部分は濁點なしの片假名で書かれてをり、句讀點もふられてはをりません。その意味で、現在のわたくしたちにとつてはいささか不自然な文體ではありますが、當時はそれがごく自然なものであつたらうと類推することは可能です。ただ、今日のわたくしにとつて、そこに使はれてゐる「諸君」といふ言葉だけは、死語同然の古びた響きをおびてをり、ある有名な出版社の發行してゐるごく紙質の惡い月刊雜誌の題名としてしか、その實例を思ひ浮かべることのできない語彙であります。にもかかはらず、わたくしの前任者にあたる第25代總長の吉川弘之先生が初めて「皆さん」といふ呼びかけを口にされる瞬間まで、東亰大學の總長は、一人の例外なく、創立以來1世紀餘にもわたつて、新入生を「諸君」と一貫して呼びつづけてをります。

 わたくしは、その事實を發見して、鈍い衝撃を覺えずにはおられませんでした。そこには、ことによると、日本語における二人稱的な呼稱の使用への留保的傾向といつた現象が介在してゐるのかもしれない。あるいは、女性の新入生が比較的少なかつた時代の殘滓なのかもしれない。いづれにせよ、この「諸君」から「皆さん」へのごく最近に起こつた變化の中に、わたくしは歴史のある斷面における變化が作動してゐることを實感せずにはいられません。このやうに、歴史は、たつた一つの些細な言語記號のほんのわづかな配置のずれとしても露呈されるものなのです、それを不自然として驚くこともまた、東亰大學122年の歴史を智識以上の何かとして肉體化するための1つの契機にほかなりません。

 もちろん、持續と變容とがつむぎあげる歴史の諸相は、それより遙かに見えやすい細部をたどることでも、充分に把握することができます。例へば、初代總長渡邊洪基の式辭が言及してゐる卒業者數などがそれにあたるかもしれません。「今日分科大學ノ卒業證書ヲ得ルノ榮譽ヲ有シタル者ハ法科大學二於テ11名醫科二於テ3名工科二於テ26名文科二於テ3名理科二於テ6名以上49名」と述べられてゐるやうに、帝國大學の第1囘卒業生の總數は50名にもみたないものでした。その數を、昨年度の卒業生3,615名と比較して、そのあまりの違ひに大袈裟に驚いてみても始まりません。發生期の國立大學がこの程度の規模だつたことは、ある種の類推にしたがつて想像できないわけでもないからです。問題は、文字通りのエリィトといつてよからうこの選ばれた少數者に向かつて、「大學院二入ル者ハ其ノ企劃スル所ノ學科ノ蘊奧ヲ攻究シテ彌々其ノ幽玄ヲ闡發シ合セテ國家ノ富強文明ヲ致セヨ」と渡邊總長が述べてゐることです。さらに「將來益々分科大學及大學院卒業ノ學生多クヲ加ヘテ國家ノ須要二應シ我カ社會制度ノ邊隅二至ルマテ學問ノ經綸到ラサル所ナキニ至タル」と語る總長が、「國家ノ富強文明」だの、「國家ノ須要二應ジ」といつた言葉がごく自然に口にもされてゐることが問題なのです。

 それは、帝國大學令に讀むことのできる「國家ノ須要二應スル學術技藝ヲ教授シ、及其蘊ヲ攻究ス」といふ精神にも通じる官立大學の理念にほかなりません。また、同じ卒業式で挨拶に立つた内閣總理大臣伊藤博文が「一個人ノ智識ハ擴充シテ一國ノ智識ト爲リ一國ノ智識ハ興國智識相互ノ道ヲ啓キ四海會同親交ノ基亦之二因ル」と述べてゐることにも通じてゐるでせう。伊藤博文は、さらに、「列國ノ交渉二於テモ文明諸國ト比肩駢馳セント慾スル道ハ專ラ智識ヲ啓發シ學術攻究シ敢テ一歩ヲ後レサルコトヲ競フニ在リ」といふ言葉で、懸案だつた不平等條約の改正の處理にあたつても、官立大學出身の少數者の高度な智識と着實な振る舞ひとに、期待を寄せてをります。時の總理大臣が、たつた50人にもみたぬ帝國大學の卒業生を前にして、かくも大袈裟な言葉で熱い期待を述べてゐることに、20世紀末に生きるわたくしたちは、ある種の齟齬感を覺えずにはおられません。だが、さうした事態がいまでは想像もつかぬほどの現實味をおびてゐた時代が、この東亰大學の歴史には間違ひなく存在してゐたことは、理解できます。ことによると、さうした期待と、それに應へた卒業生のその後の活躍なくしては、現在日本の繁榮などありえないとさへいへるかもしれません。そんな事態が煽りたてる隔たりの意識を、あなたがたはどう處理されるでせうか。初代總長が口にしたほどのあからさまな國家的な期待を、「諸君」と呼びかけられても不思議ではないあなたがたに投げかけやうとはしてゐないわたくしの式辭を、あなたがたはどのやうに聞き屆けられるのでせうか。

 もちろん、東亰大學の歴史は、その後も、ときに危機的なものでさへあつた政治状況と對峙しながら、多くの變遷をたどることになるでせう。その名稱も、時代に應じて、東亰大學から帝國大學へ、さらに東亰帝國大學からふたたび東亰大學と、目に見えた變化をくぐりぬけてをります。だが、その歴史を、ここで詳細にたどることはいたしません。にもかかはらず、わたくしがあへて初代總長の卒業式の式辭に言及したのは、いま、この場で創設の記念日の年ごとの囘歸を祝福しつつある東亰大學の、あなたがたを含めたわたくしたち一同が、遠くもあれば近くもあるその起源となつた瞬間を、どのやうにして受けとめることが、大膽にして纖細な知の空間に身をおいたものにふさはしいのかを考へてみたいからにほかなりません。

 わたくしは、さうした問題をめぐつて自分なりにいだゐてゐる視點を、ここで詳しく披露することはいたしません。ただ、近代國家のさまざまな制度の一つとして世界各地に大學が生まれたり、再編成されもした19世紀といふ時代を、人類がいまだ充分には處理しきれてをらず、そのことが、日本をも含めた世界のさまざまな場所で、いまなほ無視しがたい複雜な混亂を惹き起こしてゐるといふことは指摘しておきます。さうした混亂のほとんどは、ごく單純な二項對立をとりあへず想定し、それが對立概念として成立するか否かの檢證を抛棄し、その一方に優位を認めずにはおかない性急な姿勢がもたらすものです。さうした姿勢は、それが當然だといふかのやうに、他方の終焉を宣言することで事態の決着をはからうとするもので、西側の勝利による冷戰構造の終結といつた粗雜な議論がさうであるやうに、現實の分析を囘避する知性の怠慢を證言するのみであります。實際、現在のコソボ情勢など、東西對立とその終焉といつた概念だけで事態を處理できると錯覺してゐた知性の怠慢が、高いつけを拂はざるをえなくなつてゐる事例にほかなりません。

 今日の日本社會を疲弊させてゐるのも、それを思はせる虚構の二項對立をめぐつての不毛な議論であります。バブルがはじけたといふ粗雜な比喩である状態の終熄に言及しながら、誰もが何かの終はりを口にすることで事態の收拾をはからうとしてゐるのですが、知性が議論の場からあつさり撤退させられることで、いまでは「終はり」が目的化してしまひ、講もその趨勢をおしとどめることができなくなつてしまつてゐるのです。さうした議論の論點をいささか圖式的に整理するなら、帝國大學の第1囘卒業式で、總理大臣伊藤博文と總長渡邊洪基がこぞつて口にしたごく少數の卒業生に對する過剩なまでに熱い期待の表明が、いまや時代遲れのものとなつてゐるといふ一點にすべてが還元されてをります。それは、ある意味で正しい視點でありませう。事實、わたくしも、さうした國家的な期待をここでは表明してはをりません。當初は50人にみたなかつた卒業生が3,000人を超へるやうになつたいま、東亰大學はもはや國家的な期待を獨占する選ばれた者たちのためのエリィト校ではなく、まぎれもなく大衆化された大學の一つにほかならないからであります。また、そのときは一つしかなかつた官立大學がいまでは99校も存在するといふ事態の推移につれて、現在の日本社會の必要としてゐる國家像が、東亰大學創立當時の國家の概念とは、明らかに異なる性格をおびるにいたつてゐるからです。

 問題は、さうした議論の周邊にかたちづくられる2項對立の構圖の虚構性と、それが前提としてゐる檢證ぬきの結論にほかなりません。一國經濟からグローバリゼーションヘ、國營から民營化へ、法人資本主義から市場原理へ、終身雇傭から人材の流動へ、摸倣から獨創へなど、かうした現代の日本で主題化されてゐる二項對立は、いづれも後者の優位を前提として語られてをります。官の時代が終はり、民の時代が始まるといつた議論が、摸倣の時代から獨創の時代へといつた耳あたりのよいスローガンとともに、事態の檢證を缺いた粗雜さで、まことしやかにささやかれてをります。國家公務員の25パァセント削減といつた、諸外國の識者が耳を疑ふしかないやうな數値目標や、最終的には民營化を目指した國立大學の獨立行政法人化といふ議論が盛んにされてゐるのも、さうした文脈においてにほかなりません。

 一見、正論であるかに響くさうした議論は、肝腎な問題を巧妙に隱蔽してをります。例へば、文化省が獨立した官廳として存在してゐないがゆゑに、藝術家たちの個人的な華々しい活躍にもかかはらず、國家としての日本の文化的なプレゼンスが世界でも相對的に低く、それが、外國に比べてただでさへ少ない國家公務員の中でも、文化を專門とする公務員の數の極端な少なさに正確に對應してゐるといふ深刻な事態は、責任ある人たちによつて議論されたためしがありません。また、世界でも例外的に私立大學が多く存在するアメリカにおいてすら、高等教育に投資されてゐる豫算の國民總生産あたりのパァセンテージが、日本のそれより遙かに高いといふ事實も無視されたまま議論が進んでしまつてをります。そこには、國家の時代は終はり、市場原理を基礎にした民間の活力に頼るべき時代が始まつたとする實態の檢證を缺いた2項對立の構圖ばかりが浮かびあがつてきます。だが、何かが終はつたといふ宣言で事態を處理しやうとする考へ方そのものが、19世紀以來の惡しき思考停止のパターンにほかならず、そこからいかにして自由になるかといふ議論がなほざりにされてしまふのです。

 近代とは、何ごとかの終焉を語ることで竒妙に安定する社會にほかなりません。いま、わたくしたちが批判すべきは、官の時代か民の時代かといつた思考の見せかけの安定をあたりに波及させる19世紀的な二項對立の圖式にほかならないはずです。にもかかはらず、その構圖を温存したまま改革が進められやうとしてゐるところに、混亂が生まれるのは當然でせう。その結果、目的と手段の取り違へといふ知性にとつては恥づべき混同が、いたるところで起こつてをります。人類が、いまだ19世紀を處理しきれてゐないといつたのは、わたくしたちがさうした事態に日々接していながら、その對處に知性が有效に使はれてゐる形跡が一向に認められないからなのです。

 文化の領域で爭はれた「モダン」か「ポストモダン」かといつた不毛な議論などもそれにあたります。例へば、合衆國の歴史學者イマニュエル・ウォーラステインは、「19世紀的な學問」のパラダイムは終はつたといささか性急に宣言してをります。他方、「近代」を終はりなき「未完のプロジェクト」と定義するドイツの社會學者ユルゲン・ハーバァマスのやうな學者もをります。だが、すでに終焉してゐるか否かをめぐるかうした二者擇一が、19世紀に注くべき視綫を眞の意味で知的に鍛へるかどうかは、大いに疑問であります。それこそ、19世紀的な思考パターンを無批判に繼承するものだからです。一つの對象であれ、一つの現象であれ、あらゆる事態には變化する側面と變化しない側面とがそなわつてをり、その機能と構造とを把握するには、一方の見せかけの優位に惑はされることなく、總體的な判斷へと知性を導くゆるやかで複合的な視點が必要とされてゐるはずです。

 とりわけ、われわれがいまなほその恩惠に浴してゐる多くの近代的なシステムが構築された19世紀に對しては、さうした姿勢で接しなければなりません。フランスの哲學者ミシェル・フーコーは、19世紀といふ時代を、「いまなほわれわれの同時代でありつづけてゐる一時期」、「われわれがまだそこから立ち去りきつてはゐない一時期」といつた婉曲な表現を使つてをります。わたくしも、何かが終はつたか否かに言及する性急さを囘避し、總體的な視點を可能にする、ゆるやかで複合的な思考をさらに鍛へるべきときがきてゐると思ひます。さうすることで、「それぞれの年齡は、それにふさはしく開く花々を持つてゐる」といふすでに引用したプルゥストの言葉が初めて現實味をおびてくるはずです。社會も、その發展のあらゆる段階で、それにふさはしい花を開かせることが可能なものなのです。だが、いま、人びとは、經濟不況期には開くべき花などどこにもないと信じきつてゐるかのやうに、虚構の二項對立による「終はり」の宣言ばかりを急ぎ、不毛なペシミズムから拔け出せずにをります。それが、いまだ19世紀を充分に處理しえずにゐることからくる混亂にほかなりません。さうした思考のパターンにおいては、1877年4月12日の東亰大學の創立は、たんに豐かな傳統を誇るための口實とされるか、あるいは、現在のわれわれとはいかなる接點ももたない過去の出來事として、たんなる年代記的な記述の對象とされるしかありません。

 新入生の皆さん。あなたがたは、わたくしが總長といふ立場にふさはしい祝福の言葉を一言も口にすることなく、この挨拶を終へはしまひかといふ危惧の念をいだかれてゐるかもしれません。

 實際、わたくしは、東亰大學の入學試驗に首尾よく合格されたあなたがたの類ひまれな知性をたたへ、そのために消費された時間とエネルギーとをねぎらふ言葉を、まだ語つてはをりません。あなたがたを背後から愛情こめてみまもつておられたご家族への感謝にみちた共感の氣持ちも、口にせずにをります。ことによると、この挨拶の冐頭からさうしておけば、わたくしに課せられた役割のかなりの部分は氣輕にはたされ、いたづらに背筋をこはばらせる理由はなかつたのかもしれません。また、東亰大學が、あなたがたの期待を受けとめるにふさはしい優れた高等教育の機關だといふことを、醜い自画自贊に陷ることもいとわぬ大袈裟な言辭で語つておけば、わたくしなりの公式の義務をつつがなくをへることができたのかもしれません。さうした言葉がをさまりがちな形式的な單調さを避けるための修辭學的な配慮として、ほどよく教訓的な插話を、適度に啓蒙的な語調であれこれ變奏してみることも、わたくしに期待された役割の一つだつたのかもしれません。にもかかはらず、わたくしは、齟齬感だの、違和感だの、隔たりの意識だの、19世紀だのといつた言葉を藝もなくくりかへすことに、この式辭の大半をつひやしてしまひました。

 わたくしが、あなたがたを受け入れやうとしてゐる東亰大學における教育と研究の質の高さに、ほかの誰にも劣らぬ自信と誇りとをいだゐてゐるのはいふまでもありません。なお改善すべき多くの點の存在を認めつつも、この自信と誇りとはいささかも搖らぐことはありません。ただ、總長に就任して以後も抛棄しえずにゐる教育者としての倫理觀と羞恥心は、無償の自画自贊に陷ることの醜さだけは許さうといたしません。つい先日も、さうした理由から、香港で發行されてゐる英語週刊誌の編輯長に、鄭重な語彙を選擇しつつも、内容としてはあからさまに喧嘩腰の手紙を書いてしまひました。

 その週刊誌は、過去2年間にわたつて、オーストラリアとニュウヂィランドをも含めたアヂアの「大學ランキング」といふ企劃を4月の始めに行つてをりました。東亰大學は、2年つづけてその第1位に選ばれてをります。それは、國際的に名譽なことかもしれません。だが、東亰大學のよきパァトナァであり、そこでの教育と研究の質の高さを確信してゐる日本を含めたアヂアの優れた大學が、他とは比較しがたい「質」の向上を求めて日夜努力をかさねてゐることを知つてゐるわたくしは、「質」の問題を安易に「量」に置き換へ、野球やサッカーのリィグ戰の順位かゴルフのスコアァのやうに、無數の大學の順位を數字の羅列で位置づけてゐる無邪氣なペシミズムには、驚き以上の屈辱感を覺えずにはおられませんでした。

 もちろん、この種のランキングが、見せかけの眞面目さが賣り物の多くの商業雜誌によつて、アメリカを中心として、ヨーロッパでも盛んに行はれてをり、その事實を知らぬはけではありません。それが、豫算や研究費や外國人の學生の獲得に必須のものだからといふ理由で、ほとんどの大學がかうした企劃への參加を積極的に受け入れてもをります。かうした手輕な統計的手法による大學の「質」の評價には、アメリカ合衆國でも、スタンフォード大學の學長がすでに深刻な懸念を表明しておられます。にもかかはらず、その傾向はますます助長されてをり、つひにアヂアにも波及したのです。かりにかうした事態をグローバリゼーションと呼ぶのであれば、それは、すでに多くの人が指摘してゐる通り、普遍的な原理を缺いたマスメディアの流行現象でしかありません。知性がその成果を正當に評價する以前に、「ランキング」ばかりが獨り歩きしてゐる現状を、大學がいつまでも容認するはずはないからであります。あと10年ほどはこの不幸な状態が續くでせうが、やがて、市場から驅逐されてゆくことは間違ひありません。

 數値には還元されることのない「質」の評價を、安易に「量」の計測にゆだねてしまふといふ態度が哲學的な錯誤以外の何ものでもないことは、アンリ・ベルグソンの哲學いらい多くの人が認めてをります。にもかかはらず、本年度の企劃への參加を、エクスクラメーション・マークつきのCongratulation!といふ單語で無邪氣に書き始めてゐる編輯長の手紙には、齟齬感を超へた深い絶望を覺えずにはいられませんでした。もちろん、わたくしは、外部の人間による大學の「質」の評價に反對なのではありません。それどころか、東亰大學は、かうした外部評價を、他の大學にさきがけて率先して受けてをります。これからはそれがますます盛んになつてゆくだらうし、それを公開することは、税金によつてわたくしたちの教育と研究を支へてくれる國民に對する當然の義務だとさへ思つてをります。わたくしがどうしても容認できないのは、「アヂアの大學ベスト50ランキング」といつたあからさまにスポーツ・ジャーナリズム的な手法が、大學を語るのにごく自然なものであるかのやうにいたるところで採用されてゐることの不自然さであります。その不自然さを、必要惡として、あるいは知的な遊戲として容認するといふ態度もないではありません。それに耐へてみせることが、成熟した姿勢だといふ人もゐるでせう。だが、人間の思考は、いつでもそのやうにして頽廢してゆくものなのです。そして、知性の名において、その頽廢にさからわねばならないといふのがわたくしの考へなのです。

 教育者の倫理として、また知的な羞恥心として、それを受け入れることができないわたくしが、總長としての責任で、英語週刊誌の企劃への參加を見合はせたのはいふまでもありません。したがつて、編輯長によるいやみなコメントが東亰大學に言及することはあつても、今年は、その英語週刊誌の「アヂアの大學ランキング」に、あなたがたがその一員となつた大學の名前は登場いたしません。たまたま書店でこの雜誌に目をとめることがあるかもしれませんが、ランキングの上位に東亰大學の名前が缺けてゐることに、落膽したり、驚いたりしてはなりません。それは、あへてさうした態度を表明することこそが、東亰大學が高度に維持してゐる教育と研究の「質」にふさはしいと確信するわたくしの、職業的な倫理のあらはれにほかなりません。

 他者の嚴しい評價に身をさらすことは確かに意義のあることですし、あなたがたもさうすることでこの大學の一員となられました。しかし、わたくしたちは間違つてもそのランキングは公表いたしません。もちろん、それは情報公開の流れにさからおうとするからではなく、あなたがたにそなわつてゐるとわたくしたちが判斷した潛在的な資質を、この大學の知的な環境と觸れ合ふことで、あなたがた自身の手で顯在化させていただきたいからなのです。重要なのは、ここにおられる一人ひとりが、試驗に合格したことが告げてゐるかもしれない相對的な聰明さへの滿足感とは異質な、未知の自分自身と出會ふことの絶對的な喜びを體驗することにあります。それと同樣に、わたくしたちにとつての眞の誇りは、數値の相對的な比較によつて下された「アヂアの大學ベスト1」といふ評價ではなく、他との比較を缺いたその「質」の豐かな充實ぶりへのわたくしたち自身の搖るぎない信頼にほかならぬと、わたくしは確信してをります。

 わたくしは、この式辭を終へるにあたり、その確信を、ここにおられる一人ひとりに、祝福のしるしとして送りたいといふ誘惑にかられてをります。あなたがたは、さうした祝福の表明に齟齬感を覺えるかもしれない。違和感をいだくかもしれない。隔たりの意識を持たれるかもしれません。だが、かりにさうだとしても、それを處理するために動員される知性を、東亰大學と深いところで接觸する契機としていただきたい。さう口にすることだけが、教室であなたがたと親しくする機會を奪はれたいまのわたくしに、からうじて許された贅澤となるはずだからです。

平成11年(1999年)4月12日